異常体験というものは、多かれ少なかれ誰にでもある経験である。
異常と言うと語弊があるかもしれないが、
要は一般ピープルはまず経験しないようなことである。
それは幽体離脱であったり、宝くじに当たることであったり人それぞれ。
今回紹介する私の異常体験は幽体離脱程ではないにしろ、
多分世界中で私くらいしか経験したことはないのでは、という話。
あれは私が大学の4回生の頃。
研究室に入って一年目のことであった。
季節はすっかり冬の色を濃くし、毎朝登校する時には 白い息を吐き出す程になった。
寒い寒いと言いながらも私は研究室に通っていた。
その日、研究室の一画の休憩室には箱ごと入ったみかんが 置いてあった。
しかし私の所属していた研究室は大所帯で
「誰でもご自由におとりください」なんて代物は
あっと言う間になくなってしまう。
当然みかんも例外ではない。
夕方にはほとんどなくなってしまっていた。
実験が詰まりに詰まってろくに休憩も取れなかった私は まだみかんを食べられずにいた。
そこに、とある先輩の一言。
「タムケンちゃ〜ん。氷みかん食べる〜?」
やった! これは天の助けだ!
実は私は大の氷みかん好き。
冬だろうがなんだろうが是非とも食べたい。
その日の実験を切り上げるかどうか迷っていたので 丁度良いタイミングだった。
ふたつ返事で頼み、急いで時間を作ろうとした。
そうこうしているウチに氷みかんは出来あがり、 次々と減っていく。
私は何とか実験に一段落をつけ、氷みかんを探した。
が、ない。どこにも。これはどうしたことか?
「すいませ〜ん。氷みかんどこですか〜?」
「ああ、今食べ終わったトコ♪」
何ですと!?
お〜〜〜い!
食べる?って訊くだけ訊いておいて、
どうしてさっさと食い尽くしているんだ。
無理に実験を切り上げた私の立場はどうなるんだ。
これだから下っ端は辛い。
だが私の食欲はそんなもんじゃくじけない。
残り一つになったみかんを手に入れて自ら作ることにした。
こうなったら他人は信用できない。例え先輩といえども。
そしてみかんをフリーザーに入れた。
それも−80℃のフリーザーに。
これはもちろん家庭用のものではない。 実験のような特別な条件を必要とする場合に使う特殊なフリーザーである。 まず一般ではお目にかかれない代物。
−80℃の世界は、手が湿っている夏場などは結構危険である。 手がすぐに凍ってしまうからだ。 よく冷えた氷を触ると手について離れないが、 その何倍もの冷気を産み出せる温度。
その温度で氷みかんを作ることにした。
ちょっと冷静に考えれば危険の二文字がすぐに思いつくのであろうが、 愛しの氷みかんを目の前で失ったショックで みかんだけでなく私の思考までもが<フリーズ>していた。
その時の私の頭の中ではこんな図式が浮かんでいた。
0℃の氷みかん→とっても美味い。
−80℃の氷みかん→0℃の80倍美味いに決まってる!
理系のくせに我ながら破綻した図式だ。
しかし私は破綻に気づかない。15分後まで。
フリーザーにみかんを入れて15分後、やっと出来た。
嗚呼、麗しき氷みかんが。
私は氷みかんを作るにあたって独自の製法を持っている。
むしろそれはこだわりと言える。
皮を全部むき、筋の一切をとり、凍ったみかんがすぐに 食べられるように粒をバラバラにするのだ。 そしてビニール袋に入れて冷凍する。 こうすると堅いみかんが溶けるまで待つことなく食べることができる。
−80℃のフリーザーの重い扉を開けると
粒々の極上の氷みかんが産声を上げた。
冷気をしたたらせる氷みかんのなんと美味しそうなこと!
確かわらしべ長者の一説だったか。
手にしたみかんを、喉の渇きを訴えたお姫様にあげて、 主人公は巨万の富を得る。 逆に考えると、お姫様は巨万の富を与えてもいいくらいの 渇きを感じており、みかんにはその価値があったというわけだ。
そのときの私にはお姫様の気持ちがよくわかった。
もう何にかえても氷みかんを食べたかったのである。 言わば氷みかんボルテージMAX。
テーブルに座って食べるなんてだるいことはできない。
今すぐ食べるのだ!
白衣を着たまま、実験道具を片手に 私は、−80℃の氷みかんの一粒を、口に、放りこんだ。
ワオ!
おいし〜! つ〜めた〜い♪
冷た美味し〜〜〜♪
冷たい冷たい美味し〜〜♪
冷たい冷たいつめた、つめ、つ、つめめめめつめ・・・・・・
!?
NO〜〜〜〜〜〜〜!!
はわわわ! 冷たいを完全にぶっちぎってメチャクチャ痛いよ!!
痛い! 口の中がべらぼうに痛いです!
針でも口の中に入ってるのでは!?
すいませんでした! 無茶なことしてすいませんでした!
生まれてきてすいませんでした!
南極だ! 私の口に南極がやって来た!
ヤバイ! マジで死ぬぞこれは!
−80℃の冷気がよもやこれ程とは!
身の危険を感じた私は急いで吐き出そうとした。
が、極低冷気で口が凍って開かない!
どうしても開かない。
舌と上あごが氷みかんをはさんだままビクともしない。
口内の水分が凍結し、肉を接着してしまっているのだ。
まるで生まれた時から口が開かなかったかのような錯覚に陥った。
痛みはすでに消失していた。感覚が麻痺している。
みかんを口に含んでわずか10秒足らずでこのあり様。
と、口の中で音がした。
ベキッ!
何!? 何の音!?
私の口の中で一体何が起こってるんだ!?
骨か!? 温度差で骨が折れた音か!?
しかもそれは私の骨なのか!?
ななななんとかせねば!
なんとかしたいのは山々だがなんとかできるわけがない。
完全にパニックに陥ってしまい、何をすればいいのか全く思いつかない。
凍った口をどうすることもできず、ただ休憩室を弱々しくのたうつだけ。
しまいには一人でなぜか盆踊りのような動きをしていた。
口の中が凍ったことで、なぜ盆踊りをしたのかは我ながら謎である。
休憩室の中には何人かの先輩や同期が談笑していたが、
平常時から奇妙な行動をとる私に注意を払う者無し。
まさか私の口の中が凍っているとは誰も知らない。
もちろん誰も助けてくれない。
もう少し普通っぽく振舞っておけばよかったと私は後悔したが
時すでに遅し。
しかし、やはり−80℃と言っても一粒のみかんに過ぎない。
徐々に温度が上がって3分くらいで溶け始めた。口も開いた。
心底ほっとしたのは言うまでもない。
口中がヒリヒリと痛んだがそんなことはどうでもよかった。
私は生還したのだ。−80℃の極低温の深遠から。
気分は南極点から生還した冒険家の気分だった。
口が開いた私はようやく盆踊りを止め、床にへたり込んだ。
白衣を着、左手にはフラスコ、右手には残りの氷みかんが入った袋を 持っていた私の口から、溶けかかった氷みかんの一粒がぽろりとこぼれ、 べちゃりと床に落ちた。
20歳そこそこの若者がこんな状態になるなんて 稀に見る現象である。
またタムケンがおかしな行動をとり始めたと思って放っていた 先輩方も異変を察知し
「普段よりいっそう変だけど、どうしたの?」
と心配しているのか、していないのか微妙な言葉を投げかけた。
私は息も絶え絶え事情を説明した。
口の中に南極が訪れましたと。
すると先輩からこう言われた。
「さすがタムケン。よし、今度は液体窒素で氷みかんを作って食え!」
確か液体窒素って-190℃くらいじゃなかったっけ?
そんなの食べたら脳が凍りますよ!と私は真剣に抗議した。
先輩は笑顔だったけど眼が笑っていなかったので わりと本気だったような気がする。
それ以来、私は氷みかんを一度も食べていない。
で、結局何が言いたいかと言うと、
「何にせよ、南極から帰ってきた探検家はすごいのだ」ということ。
アンニョ〜ン