タルギはよく図書館から本を借りてくる。韓国人でありながら日本語の、それもかなり難解な本を読んでいて、最近は仏教や哲学の本を読み漁っている。
私は科学系の難解な本ならいくらでも読めるが、宗教や哲学系統はかなり苦手で、タルギが借りた本を数ページ読んだだけでも頭が痛くなってしまった。
そんなタルギがまた本を借りてきた。
【新しい自分に目覚める4つの質問】
うーん。何か悩みでもあるんだろうか。
タルギはかなり新しいと言うか珍しいタイプの人間なのに、これ以上新しい何かに目覚めたら人類を超越した領域に入るかもしれない。ちょっときいてみよう。
「ねえタルギさん、最近は仏教とか哲学とかの本をよく読んでるね。なんで?」
「そう。よく読んでる。勉強になるの」
「何の勉強?」
「決まってるやんか。悟りを開くためよ」
悟り!?
きた。すごいの来た。
悟りって、仏様とかキリストとか、聖人が辿り着く精神の極みとか言われるヤツか?
よく分からんが、何か凄いこと言い始めたな。
「えっと、よく分からんのやけど、悟りって普通の人が開けるものなの?」
「そこが難しいの。だって人は体という皮を着ているから、なかなか悟りを開けないのよね。でも最近の私は悟りは開けなくても別の境地には到達できるようになってきたのよ」
「ど、どこに?」
「宇宙の真理に」
ウチの嫁が何かヤバい!?
どうしよう。
タルギが新しい何かに変貌しつつある。
河内長野市に住んでるのに宇宙に行けるようになってしまった。
かなり面白い展開になってきた。
「あの、どうやって宇宙に行こうとしてるのかな?」
「車で」
「車?」
「うん。車で行くの」
「ウチの日産セレナで?」
「セレナで行けるよ」
「ど、どうやって?」
「そりゃ車なんだから、運転席に座ってたら行けるに決まってるやんか」
どんな決まりだ!
会話が成り立たない。
セレナでは宇宙の真理とやらに行けて当たり前らしい。日産はこの10年のゴーン改革によってセレナを宇宙仕様に変えた模様。知らなかった。
「そっか、車を運転したら宇宙に行けるんだ」
「タムケン、何か勘違いしてない?」
「何を?」
「運転席に座って瞑想してたら宇宙の真理に到達できるってことなの」
「瞑想?」
「そう。目を閉じて集中する瞑想。車の中に一人でいたら静かでしょ?」
なるほど。それで分かった。
瞑想は雑念を取り払う精神の集中法で、アジア圏では宗教的な儀式や僧侶の修行として古来から使われているが、最近は科学的にも有効性が証明され、欧米にも浸透しており、IT企業の研修にも導入されたり、セレブにも生活に取り入れる人が多いと聞く。
タルギが瞑想していたのは、車を運転してロケットのように飛んで宇宙に行くためじゃなく、日々のストレスをコントロールし、集中力を高めるためにやっていたようだ。
「で、どこに到達するって?」
「ウチュー。ウチューの真理イムニダ♪」
ヤバいことには変わりなかった!
完全にあっちの方に行ってるな。
もう放っておいてもいい気がしてきたが何とか食らいつく。頑張れ、オレ。あきらめたら、そこで試合終了なんだ。
「でもさ、いくら努力しても一般人はまず悟りは開けないよな。百年に一人とかじゃない?」
「ふ、甘いなタムケン。そうでもないんよ」
何やらドヤ顔のタルギ。
何だろう。なぜ見下されているのか。
悟りを開こうという高尚な精神の持ち主が、明確に他者を見下すのはどういう心境なのだろうか。何か腹立つな、このドヤ顔。
「私はね、悟りを開いた人に会ったんだ。百年に一人どころか、努力すれば誰でも悟りを開けるのさ!」
「ほー、希望のある話やね」
「そう!悟りはすぐそばにあるものなの」
「で、悟りを開いた人ってのはどこで会ったの?」
「んっとね、お茶飲みに行った時に会ったよ」
「お茶?友達とのこと?」
「違うよ。そこのオバちゃんのこと」
「オバちゃん?」
「カフェのオバちゃんが悟り開いてたの」
本当にすぐそこにあるのね!?
アラフォーの私を完全に振り切るエピソード炸裂。どこから手を付ければいいのか全く分からない。
近い。悟りの世界、あまりにも近い。
何でもタルギの話によると、悟りを開き、宇宙の真理に触れている聖人クラスの方は、近所でカフェを営んでいるらしい。そこに友達と行き、色々と話を聴いて感銘を受けたそうだ。そう、宇宙の真理の話を。
もはやどう取り扱っていいか分からないくらいカオスな嫁に対して、軽く目眩を感じつつも、ここで見失ってはならんとさらに食い下がった。
「そ、そっか。カフェのオバちゃん、悟りを開いてたんだ」
「うん。何かね、私にはいい感じのオーラがあるって言ってたよ」
オーラですか。
もはや驚くこともない。
悟りを開けるならオーラの一つも見えるってもんだ。
ところでオーラって何だっけ?
もうどうでもいいが。
「悟りを開くとどうなるの?」
「んとね、煩悩から解き放たれて、怒りとかも感じないの」
「ほう。怒りも無くなるんだ」
「そうなの」
「煩悩や怒りを忘れて、宇宙の真理に到達するのが悟りなのかな?」
「ま、そんなとこかな。まあまあその理解で合ってるんじゃない?」
ここでも腹の立つ上から目線。
ちょっとからかってみよう。
「タルギさんは怒りを忘れて悟りを開きつつあるんよね?」
「ふふん。そうだよ。
開きまくり。もう開きまくり」
「なるほど。悟りを開いて怒りや煩悩から解き放たれてるのね。それなら面倒なことも気にせずにキチンとやるものでは?」
「うん?まあそうかな。悟ってるからね。すべてを。悟りングやしね」
「じゃあ、とりあえずトイレットペーパーは最後ひと巻きだけ残しておくのやめてね。芯を交換するのが面倒だからって、ひと巻きだけ残して次の人に手間を押し付けちゃ駄目」
「え?あ、うん」
「それとティッシュも使い切ったら空箱を放置しないで新しいティッシュを補充すること。使おうとしたら中身が無いのってメッチャストレスになるんよ。使い切ったときに分かってるでしょ?なんで放置するの?悟ってるんでしょ?」
「あ、えーと、はいはい」
「それからね、ドレッシングは使い切ってもいないのに次々と新しいの買ってきて瓶を開けちゃ駄目。3分の1残ったドレッシングが冷蔵庫に6本はあるんちゃう?要らんでしょ、そんなに。調味料も一回だけ使って冷蔵庫に放置してるし。何本も。使う見込みが無いなら捨てないと」
「ええ?でも捨てたら勿体ないやんか」
「使いかけで何年も放置してるほうが冷蔵庫のスペースが勿体ないよ。調味料やドレッシングより冷蔵庫のほうが何百倍も高いんだから。そもそも使わないドレッシングを買う時点で駄目。ウチ、サラダあんまり食べないし。テキトーに思いつきで買うからそうなるの。悟ってないの?」
「・・・」
「あと洗濯も・・・」
「・・・」
「家庭菜園も放置して枯らして・・・」
タムケンのあーだこーだ 云々カンヌン。
「うるさい」
「え?」
「うっさいんじゃタムケン!
なめとんのか!
韓国人なめとんのか!
さっきからごちゃごちゃうっさいわ!
こっちは忙しいねん!
子どもたちの世話と家事で忙しいねん!
何でもキチンとしてられるか!
しばきまわすぞ!!」
「あ、怒った」
まだまだタルギの悟りは遠いようです。